遊び遊ばれ
その男が漂わせている香りに、山本陣内は息をのんだ。
忍が香を焚くことなんて殆どない。もし身につけるとしても、色の仕事をする時くらいで、それを除けば、できるだけ痕跡を残さないこと、それが鉄則である。
それなのに、目の前にいる忍は、山本の記憶に強く残っているその香りを身にまとっている。
「……伏木蔵」
「はい?」
「おまえ、殿の寝所に入ったか」
山本が尋ねると、伏木蔵は一瞬目を丸くする。それから、「えぇ?」と首を傾げて、わずかに口の端を上げた。肯定を示しているとしか思えないその仕草に、山本は長いため息をつく。
殿、とは勿論、タソガレドキ城主・黄昏甚兵衛のことである。あの殿のことであるから、おそらく雑渡に伝えた上でこの男に手を出しているのであろうが、それにしても、あの雑渡昆奈門と恋仲である人間と色事に及ぶなんて、自ら面倒ごとを引き寄せているのと同義だ。
それでも、手を出す。
つまり、よっぽどいいのだろう、この、鶴町伏木蔵という男は。
山本は伏木蔵の頭の先から爪先までをじっくりと眺めた。そして、そういえば少し前に尊奈門とも事に及びそうになっていたな、と思い出す。それほどまでに、劣情を抱かせてしまうのだろうか。それとも、この男自身が、楽しんでいるのか。
──どちらも、であろうな。
山本はそう飲み込んで、伏木蔵のほうへ一歩近づいた。
親指と人差し指をその顎に添え、く、と持ち上げる。痩せぎすとまではいかないが、まだ成長しきっていないのがわかるその首すじにもう片方の手を這わせると、伏木蔵は口を薄く開いた。
小さな舌が、わずかに見える。
「……誘っても、しないぞ」
「え〜?」
伏木蔵はわざとらしく残念そうな表情を浮かべる。そして、自分に触れていた山本の手をとって、その手のひらに、自らの頬を擦り寄せた。
「……、」
やわらかな視線を向けられ、不覚にも胸が鳴る。
その男は、じい、と山本を見つめたあと、へらり、と普段と変わらぬ笑顔をこちらに向けた。
まとうその空気は、さながら京洛の遊女のようである。鶴町伏木蔵という男のことは幼い少年だったころから見知っているが、歳を重ねるにつれ、度々このような空気を帯び出すことがあるのでおそろしい。それは、忍として、そういった経験を積んできたからなのであろう。年齢は自分のほうが随分上だが、その経験は、今やこの男のほうが、ずっと多い。
──身体は許せど、心は許さず。
そんな気概まで感じられるのだから、本当に、
「末恐ろしいな……」
遠ざかっていく伏木蔵の背中に、そんな言葉を呟いてしまった。その直後、「遊ばれてるねぇ」と機嫌の良さそうな声が降ってきたので、山本は黙ったまま頭を下げる。
「申し訳ございません」
「いいよ、……あと、あの匂い消しといてね」
「承知」
そう答えると、ぽんぽん、とその大きな手に、背中を叩かれる。
ふう、と息を吐いた山本は、雑渡の気配が消えたのを確認してから、その若い忍を追うのだった。
***
「あれ、昆奈門さん」
雑渡が屋敷の一室に戻ると、ぱらぱらと書物をめくっていた伏木蔵が顔を上げた。
本をぱたりと閉じて、「早いですね、休憩ですか?」なんて言いながら雑渡の傍へと寄ってくるその幼気な表情はいつもと変わらず、先刻まで纏っていた甚兵衛の香の香りもすっかり消えている。
雑渡は伏木蔵の洗いたての髪の毛を指で梳きながら、その腰を抱き寄せた。
「殿、あれからやけにご執心だね」
「あれ、気づいてましたか」
「わざとだろう、あの香は」
「ほぇ〜」
そんなふうにとぼけた声を出す伏木蔵の片頬を手のひらで包む。
すると、その少年はすべてをわかっているというような声色で、「僕は、昆奈門さんだけですから」と丁寧に言葉を紡いだ。そうして、自分に触れている雑渡の手のひらに顔を寄せて、口づけを落とす。
なんせ、相手はあの黄昏甚兵衛である。
悋気などない。
これは、どちらかというと、羨望、である。
「………抱かせてくれる?」
そう呟いて伏木蔵のこめかみあたりに顔を埋めると、「んふふ」と小さく笑ったその子の腕が、背中にまわった。
「いつでもどうぞ」
「おまえは……簡単に言うねぇ……」
「簡単じゃないですかぁ」
伏木蔵は、ぎゅう、と雑渡に抱きついてそう言った。
「だめだよ。まだ、仕事があるからね」
「ほぇ〜」
「おまえもだろう、黒鷲」
「えぇ〜? そうでしたっけ?」
「終わったら、ここに来ること」
「そんなの、言われなくても」
伏木蔵の身体が離れて、その小さな手が、雑渡の腕を引く。
こちらを見上げてくる伏木蔵の目は、少年のころと変わらずまっすぐであった。
色の仕事も、他の男の相手もしているというのに、「あなただけです」とまっすぐに向けてくるその目は、まるで救いのようで、雑渡は思わずその目元に唇を落とした。
各隊が揃った話し合いの場にふたりで足を踏み入れると、その様子を見た山本が大きなため息をついたあと、「仲が良くてよろしいですね」と嫌味を向けてくる。
すっかり忍の目つきに戻ったその少年をちらりと見て、雑渡は口元を少しだけ緩める。
(遊び遊ばれ、のおはなし)
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