その森で恋をする
1
森の中。
その道を抜けて、古めかしい校舎を横目に奥へ奥へと足を進めていく。
そこはいつだって空気が澄んでいて、静かで、少し薄暗くて、そんなところが伏木蔵は好きだった。高校三年生の夏休みに見学に来たとき、その木陰の雰囲気になんとなく親近感がわいた記憶が鮮明に残る。受験をすると決めたら最後、国公立大学に受かるための勉強は相当大変だったけれど、入ってみるとやっぱりこの森の道が心地よかった。選んで正解だったな、とここを歩くたびに思う。
鶴町伏木蔵は、この春からここH大学の薬学研究科に進む、いわゆる大学院生である。
本来なら医学部棟の方角に薬学部のキャンパスがあるのだけれど、伏木蔵が向かっていたのは文学部や法学部の学生が多く通っている文系棟だった。大きな道のそば、駐輪場の近くにある小さなドアを開けて中に入ると、理系の校舎とは少し趣の違う、ひっそりとした廊下が続いていた。そこらじゅうに置かれている本と、紙の資料が詰まっている段ボール。それを避けるようにして廊下を進み、その一番奥、『雑渡』と書かれた研究室のドアを伏木蔵はいつものように三回ノックする。
「あれ?」
が、返事はなかった。
磨り硝子ごしに中をうかがってみると、部屋の電気はついているようなので、おそらくどこかへ出かけているのだろう。何度かノックをしてみるけれど、部屋の中からは物音ひとつ聞こえてこなかった。
「………あ、」
はた、と思いついた伏木蔵がドアノブをまわすと、案の定鍵はかかっていなかった。不用心だなあ、とつぶやきながらドアを開けて、その部屋をのぞきこむ。当然ながら、そこに雑渡の姿はない。
それにしても、相変わらずきれいで、静かで、整った研究室だな、と思う。雑渡の部屋は、他の教授たちのそれにくらべればだいぶきれいなほうである。特に文系棟の中では段違いに片付けられていると言っていい。伏木蔵が文系の授業を履修したのは学部生のはじめのころだけだったけれど、研究室に呼び出されるたびに本の山の奥から顔を出すような先生が多くて驚いたことを覚えている。
「失礼します」
伏木蔵は部屋の中にゆっくりと進んで、デスクの向かいに置かれている三人がけほどの大きなソファに腰を下ろした。
(静かだなぁ……)
手持ち無沙汰なのを慰めるように、部屋の壁にそって置いてあるスチール棚に目を向ける。
そこには、雑渡が研究している認知行動科学に関する書籍が多く並んでいた。その中には雑渡の共著もあったはずである。再会してから何冊か目を通したのだが、これは本当に文系の研究なのかと問いたくなるような内容のものもあり、理系の伏木蔵でも興味を持つことができた。雑渡に言わせれば、この分野において文理の区切りはナンセンスであるらしい。
しばらくそのソファに身体を預けていると、遠くから誰かが廊下を歩く音が近づいてくるのが聞こえてくることに気づく。
その音がやんだと思うと、部屋のドアがゆっくりと開いた。
「あれ、伏木蔵くん」
ソファに座っている伏木蔵に視線をよこしたそのひとは、「久しぶり」とわずかに笑みを浮かべた。
「不用心ですよ〜」
「まあ、何も取られるものなんてないからね」
「そうですか? 僕が悪い人間だったら、研究データをごっそり抜いちゃってるかもしれません」
「………へえ、何のために?」
「雑渡教授の研究成果をなかったことにする、とか?」
「ふふ、理系脳だね」
「そうですか?」
そう問いながら、伏木蔵はソファから立ち上がる。はるか昔からの知り合いとはいえ、曲がりなりにも教授の研究室で学生が勝手にソファに座っているのは忍びなかったからである。それを察したらしい雑渡は「座ってていいよ」と伏木蔵の肩をぽんと叩いた。それから、自分のデスクの椅子を引いて腰掛ける。
「……で?」
「はい?」
「何か用でもあったかな」
「ないですけど〜」
そんな今更、と言って、伏木蔵は口の端を上げてみせた。
薬学研究科の伏木蔵がこんなふうに文系棟に訪れる理由なんて一つしかない。それを、雑渡も承知しているはずであった。ここ最近ではゼミ室にまで顔を出すようになっていて、そのたびに「あれ誰?」「知らん」という学部生の会話が聞こえてくるほどである。
(……だって、仕方ないじゃん)
せっかくこうして会えたんだから。
できる限り一緒にいたい、なんて思うのは、当然で。
「………先生、今日の午後のご予定は?」
「ないよ。どうせちゃんと調べてから来ているくせに」
「ふふ、当たりです。じゃあ僕が先生の今日の予定、もらってもいいですか?」
「それ、拒否していいの?」
「うーん……、嫌ですか?」
「嫌じゃない。行こうか」
「はい」
伏木蔵は、研究室の鍵を閉める雑渡の顔を見つめる。
その横顔は、昔から何一つ変わっていない。
2
伏木蔵が雑渡と再会したのは、伏木蔵が学部生三年のときだった。
いくら大学院での研究を目指している学生出会ったとしても、自分の学科や専攻でもなければ教員の出入りの話なんてそうそう耳には入ってくることはない。ただ、伏木蔵がすでにゼミで研究をはじめていた毒性学に興味を持っている教授が別の大学から赴任してくるという話が直属の担当教員から知らされ、会うことになったのである。
待ち合わせ場所は、文系棟。
静かな廊下に置かれた休憩スペースでのことだった。
「え」
「やあ」
「え……っ?」
「久しぶりだね、伏木蔵くん」
「ええっ?」
そのとき、自分でも信じられないくらい大きな声が出た。
「ざっ……」
言葉が、詰まる。
ばくばくと鳴っている胸を手のひらで押さえた。目の前にいるそのひとがどんな表情をしているかまったく目に入らないほど、伏木蔵の視点はまったく定まらず、気が動転していることがありありとわかるほどだった。
「ちょっと……、ちょっと待ってください!」
「騒がしいなあ、とりあえず座ったら?」
「そんな……、え? ほんものですか?」
伏木蔵は相変わらず背の高い雑渡の両頬を手のひらで挟んだ。
「雑渡昆奈門さん?」
昔、そのひとの肌を覆っていた大きな火傷はそこにはなかった。しかし、左目のほうは白い眼帯で隠されていて、変わらず隻眼。ただ、シンプルな眼鏡がかけられたその奥から自分を捉えているのは、見覚えしかない、雑渡の瞳だった。
「伏木蔵くん」
頬を触られたまま伏木蔵を見下ろしている雑渡に名を呼ばれ、はっとして手を離す。
「すみません」
「いいよ」
「あの……、もしかして」
「ん?」
「覚えてるんですか」
「うん」頷く。「同じだよ、君と」
「本当に?」
「うん」
「……昆奈門さん、」
もう一度、その名を口にする。
こんなの、いつぶりだろうか。
「だめだ、胸が痛くて……、死ぬかも……スリルすぎ……」
思わずその場にしゃがみ込む。
洒落にならないくらい、胸が痛くて死にそうだった。
膝の上に乗せた腕に、顔を埋める。
「う……、」
あ、泣く。
伏木蔵が、ず、と鼻をすすると、不意に手がつかまれて顔を上げる。いつの間にか目の前にしゃがみこんでいた雑渡の手が、まるで握手をするかのように伏木蔵の手を包む。
(生きてる)
あたたかな手のひらの温度にそれが実感されて、やっぱり涙が出そうだった。伏木蔵のそんな気持ちに気づいているかのように、雑渡の手が伏木蔵の頭を撫でる。
「本当に覚えてますか、僕のこと」
「うん」
「よかった……」
「伏木蔵は?」
「覚えてます、ぜんぶ」
雑渡の指が、伏木蔵の手に触れた。
つ、となぞって、握る。
「今いくつ? 伏木蔵くん」
「……二十一です」
「年の差は変わらないか」
「よんじゅう、……?」
「七」
「わあ」
「昔のほうがよかったかもね」
「そうですねぇ……」
はあ、とため息。
自然と離れた手が行き場をなくしてふわふわと宙に浮く。それを見た雑渡は小さく笑って、まるでつかまえるように再び伏木蔵の手を掴んだ。
「まあ、ゆっくりね」
雑渡は、昔そうしたのと同じように、かたい指の腹で伏木蔵の人差し指をゆっくりと擦る。
ああ、そういえばこういうひとだった。
伏木蔵は撫でられている指を振りほどくことなくそのひとにあずけたまま、「やらしいですね」そう言うことしかできなかった。
3
それから一年と少し。
結局、雑渡と伏木蔵は昔のような関係を持つことなく、ただ一緒にいるだけの日々を続けていた。
再会してからの一年間のあいだに、伏木蔵は薬学研究科の大学院に合格して卒業研究に勤しんでいたし、雑渡は正式にこの大学の専任教授となって前よりもずっと忙しくなった。それでも、暇があれば雑渡の研究室に伏木蔵が顔を出したり、学食で一緒にご飯を食べたりする。ふたりで森の道を歩くこともあったし、お互いに誘い合って大学の外で会うこともある。そんなゆるい関係が続いていた。昔と違って身近には楽しいこともやりたいこともたくさんあって、明日死ぬかもしれないという焦りもない。何事もなくすぎていく日々のなか、付かず離れず、お互いの居場所を探し合っているような感じだった。
ただ、伏木蔵自身は、まるで知り合いのような、友達のような、そんな空気が少しだけ不服でもあった。
(再会した日、あんなふうに触ってきたくせに)
ときどき、そんなことを思ってしまう。
今日だって、「何か用でも」なんて、よそよそしい言い方に少し傷ついていた。
もっと近づきたいんだ、僕は。
前みたいに。
このひとと、恋をしたい。
なんて。
「昆奈門さん、来週学会でしたっけ」
「そう。今年は九州」
「九州のどこですか?」
「福岡だったかなあ、もう全部任せてるからね」
「へえ」
「……なんで?」
「僕も、行こうかな」
「そんな暇ある?」
雑渡は笑う。
「暇ではないですけど〜」
「彼女とかは?」
「え」
「曲がりなりにも大学生でしょうに」
「……いたら、こんなふうに昆奈門さんとなんて一緒にいないですよ」
我ながら、棘がある。
「そう?」
「なんで、そういうこと言うんですか?」
静かだった。
小さく流れているBGMが際立って聞こえてきて、その場の空気が重たくなる。それでも、伏木蔵は声を発することはできなかった。まさか、雑渡のほうからそんなことを聞かれるとは思わなかったからだ。
「………しんどい」
自分がどんな顔をしているか想像がつかず、それを隠すように俯いた。
しばらく黙っていた雑渡が、がたり、と椅子を引いて立ち上がったことに気がついて顔を上げると、伝票を手に持った雑渡はわずかに口の端を上げて、いつもどおりの声色で「行こうか」と言う。
「え……、どこに、」
「伏木蔵がいいなら、このあとうちにおいで」
「え」
「どう?」
「行きます」
即答だった。
それを聞いた雑渡が楽しそうに「わはは」と笑うので、笑いごとなんかじゃない、と伏木蔵はその肩をばしっと叩く。
「痛いよ」
「ばか、もう嫌いです」
昔のままの自分であれば、すぐにでも自分から誘っていたかもしれないな、とも思う。あのころの自分は、それくらい自由だった。怖いものがなかったと言っていい。明日生きるために、今日を生きる。そんな生き方をしていたし、現に、周りからはどんどん人がいなくなって、知っている顔が減っていく、そんな毎日だった。戦も何度も経験した。死ぬ思いをすることも何度もあった。そうしているうちに自分が先に死んで、雑渡のことは看取れなかった。最後、タソガレドキで生きた数年間は、そんな、一瞬の出来事だった。だから、雑渡との関係は、伏木蔵の拠り所でもあったのだ。絶対に手放したくないし、絶対に守りたい、と思っていた。
(それは、今も同じだ)
駐車場に向かっていく雑渡の背中を追いかける。広い助手席に伏木蔵が乗り込むと、大学の構内を雑渡の車がゆっくりと出発した。その車に乗せてもらったことは何度もあったけれど、このあとのことを考えるだけで、いつもとは違う心持ちがあった。
大学のそばの大きな道路に出てすぐ、雑渡の家には数分程度で到着した。それはそのあたりではひときわ大きなマンションで、そこに住んでいるということは知っていたものの、入口をくぐるのは初めてだった。
「どうぞ」
「おじゃまします」
後ろで雑渡が鍵を閉める音を聞きながら、その玄関に足を踏み入れる。
「広いですねぇ」
「年の功だよ」
「大学近いの、羨ましいです」
伏木蔵が笑いながら振り返ると、
後ろにいた雑渡の顔がいつの間にかすぐ近くにあって、
「うわ」
思わず、声が出た。
「ん、」
唇が塞がれる。
咄嗟に身を引こうとしたけれど、それは許さないとばかりに雑渡の腕が伏木蔵を壁側に押しやった。背中が、どん、と当たる。
雑渡はまるで食むように何度も口づけた。歯列をなぞった舌が口のなかに入ってきて、舌が絡む。生ぬるい感触がじわじわと広がっていって、伏木蔵は無意識に雑渡の背中に腕をまわしていた。
「……は、ぁ」
長い口づけのあと、薄く目を開けると、自分の顔のすぐ横に押し付けられた雑渡の前腕が、目の端に映った。雑渡の目が眼鏡の奥からこちらを見据えていることに気づいて、伏木蔵は息をのむ。そんな伏木蔵をしばらく見つめた雑渡は、「ふ」と小さく笑って、もう一度軽く口づけた。
「昆奈門さん、」
夢かもしれない、と思った。
それは、再会したあの日とおなじような感覚だった。
胸が痛い。
昔とは違う、ということは、わかっている。
生き方も、環境も、すべてが違う。
でも、覚えてしまっている以上、
大事なものは大事で、変わらないのだ。
(昆奈門さんのことが、好きだった)
「いまも、好きです」
うわ言のようにそう伝えると、雑渡は満足そうに笑んだ。
そのまま寝室になだれこむようにして、久しぶりに身体を重ねた。徐々に高まっていく熱も、腹の奥で感じる雑渡の重みも、耳元で自分を呼ぶ声も、ぜんぶが懐かしくて、それだけで泣けてしまった。
行為が落ち着くころにはもう外は薄暗くなっていて、雑渡の胸元で丸くなりながら、伏木蔵はそこに額を擦り寄せる。
どうやら僕はもう一度、このひとと恋ができるらしい。
そんな幸せがあるなんて、思わなかった。
4
「あっつい……」
汗を浮かべながら苦しそうな声を出す。
九州への出張に、結局鶴町伏木蔵はついてくることにしたようで、用意周到に同じ宿泊先まで手配していた。学会員で埋め尽くされる小さな街でよく部屋を押さえられたな、と思ったけれど、この子のことだからそういうことにも頭がまわりそうだ、と雑渡は納得する。
初夏の九州はうだるような暑さで、少し南にきただけでこんなに気温が違うものか、と嫌になる。じりじりとまるで夏のような日差しが降り注いできていた。そのおかげで、ホテルに入った途端、その冷えた空気に救われるような心持ちになった。雑渡と伏木蔵はそれぞれチェックインを済ませて、エレベーターに乗る。
「荷物置いたら、昆奈門さんの部屋に行っていいですか?」
「うん」
「やった」
うれしそうに言った伏木蔵は、「じゃあ、またあとで」と手をひらひらと振りながらひとつ下の階で降りていった。
(もう、随分大人になった)
ひんやりとした静かな廊下を歩きながらその表情を思い出す。
せっかく今このときに生きることができて、それでもこうして一緒にいるのだから業が深い。それは、お互いに、である。女と恋をして、結婚をして、子どもを授かって、そんな人生を選ぶことなんて容易であるはずなのに、探して、探して、ようやく出会って、今がある。探し当てられた伏木蔵は、どう思っているのだろうか、と考えたこともあるけれど、手放すことができるとも思えなかった。こんな歳になって、どうしようもない。
部屋に荷物を入れて、ベッドに腰掛ける。
はあ、と息をついた途端、ピンポン、と呼び鈴が鳴った。何も応じていないのに、かしゃん、と鍵が開いた音がして、ドアが静かに開く。
「カードキー、一枚拝借してました」
ふふ、と笑った伏木蔵は、ベッドに座っている雑渡を見下ろしながら、雑渡の目の前に指で挟んだカードキーを、ぴ、と差し出した。
やはり、抜け目がない。
「なんか、浮かない顔ですね」
「そう?」
「暑いから?」
「それは、確かに」
雑渡が言うと、「そうですよね」と伏木蔵はうんうんと頷いて、雑渡の隣に腰掛ける。ぎし、とベッドが軋む音がした。
伏木蔵に目を向ける。浮かない顔はどっちだ、と言いたくなったけれどやめておいた。言えば、きっと怒るだろう。
「昆奈門さん」
「ん?」
「もし、なんですけど」
「うん」
「僕のことが嫌だったら、ちゃんと言ってください。昆奈門さんは、昔からずうっと僕に優しいから、甘えちゃうんです。なんでも許してくれるような気がして。……でも、今嫌われたら、きっと、立ち直れないので、」
伏木蔵は、まだ汗の滲んでいる額に自分の手の甲を当てて、俯いた。
あの伏木蔵がそんなことを言うなんて意外だった。
確かにこの数年、はっきりとした関係になることを避けていたのは間違いないのだけれど、それでもいい、と雑渡は思っていた。正直、今のこの時代で、こんな年の差で、男同士で、なんて、まったく現実的だとは思えなかったからである。
でも、
「なんか、かわいくなったね、伏」
「………は?」
その細い腕をつかんで、引き寄せる。それから、その身体を横抱きにかかえるようにして、自分の太腿の上に乗せた。
「言っておくけど、どれだけ私がおまえのこと探したかわかってる? 前途洋々なのはおまえのほうだろう。若いんだし、別に、私じゃなくたっていいんだよ」
「そんなこと」
焦ったように雑渡を見上げるその目に、口づけを落とす。
「……っ」
あの鶴町伏木蔵ともあろう人間が、何を心配しているんだか。
昔の自分に見せてやりたい。そう思った。
スリルが好きで、いつだって不敵な笑みを浮かべていて、死ぬのも厭わない、そんなふうに生きていた伏木蔵が、こんなことで弱ってしまうなんて、なんだか新鮮だった。
「伏木蔵のことを嫌だと思ったことなんて、一度もないよ」
「ほんとですか?」
「ほんと」
「ほんとに?」
「うん」
そのやりとりに、小さかったころの伏木蔵の姿が重なった。
できることなら、この時代でも近くで見ていたかった、と思う。
「伏」
「……はい、」
「もう、疲れてる?」
「え」
「しようか」
そう言って、また、顔を近づける。
伏木蔵は一瞬目を丸くして「わあ……」と小さく声を出したあと、「おねがいします」と笑った。
5
次の日、ベッドの中でまだねむっている伏木蔵を置いたまま、雑渡は学会が行われる市内の大学へ向かった。一歩外に出ると、まだ朝だというのにけたたましく蝉の鳴く声が響いていて、まだ六月だとは思えないそれに気持ちが萎える。
しばらく歩くと、大学の正門にたどり着いた。初めて足を踏み入れたその大学は、自分の勤めている大学よりもずっと都会の中にあるような印象だった。
そういえば、この大学には森がないのだな、と周りを見渡す。
考えてみれば、あんなに緑の多い大学も珍しいのかもしれない。去年の夏、伏木蔵とふたりであの森を散歩したことを思い出した。この時期の森はいいですよ、と話す伏木蔵がなんとなく楽しそうだったのを覚えている。
帰ったら、またあの道を歩いてみよう、と雑渡は思った。
きっと去年とは少しばかり心持ちが違うだろうと想像する。
文学部の入った校舎で一通り挨拶回りを終えてまた外に出ると、空調の効いた室内にいたせいか余計に暑く感じた。学会が行われる会館の入口で受付を済ませる。今回は自分の発表はないのでだいぶ気が楽である。
資料を机の上に置いて適当な席に座る。開始時間までまだ時間があるせいか、座席の埋まり方はまだまばらだった。見覚えのある顔はまだどの席にもいない。このままだとやる気のある人間に見えてしまうかもしれないな、と小さいため息をつく。
こんなことなら、もう少しあの部屋にいればよかった。
せめて、伏木蔵が起きるくらいまでは。
なんて。
頬杖をして目を閉じる。
すると、気持ちがよさそうにねむっていた伏木蔵の姿が思い浮かんで、余計に早く帰りたい、という気持ちが強くなった。夕方くらいにホテルに戻れたら、おいしいものでも食べに行けるだろうか。
「……え、寝てる?」
聞き慣れた声とともに、隣の席の椅子が、がたり、と下ろされた音がして、目を開ける。視線を上げると、そこには焦げ茶色の髪の毛に白い肌が目立つ青年が立っていて、こちらを見下ろしていた。
「おはようございます、雑渡先生」
「伏木蔵」
「目が覚めたので、来ちゃいました」
「そう……、入口で、止められなかった?」
「雑渡先生の付き添いの学生です、って言ったらいけました。スリル〜」
伏木蔵は楽しそうに笑って、小さくピースを作る。
「まあ、君の専門だったら、聞いても無駄にはならないかもね」
「僕も、そう思います」
椅子を軋ませながら隣に座った伏木蔵のほうに目を向けると、そのわずかな笑顔に心が撫でられる。それはやはり、昔よりもずっと大人びた笑顔のように感じられた。
(もう、二十三歳か)
あと数年経てば、昔の伏木蔵が落命した歳を迎える。それから先は、あの時代には見ることができなかった鶴町伏木蔵だ。
そう考えると、会えてよかった、と思う。
そして、伏木蔵もそう思っていてくれたら、とも。
「ねえ、昆奈門さん」
「ん?」
「暑いし、早く帰りたいですねぇ」
「うん」
軽く頷くと、伏木蔵の目が、雑渡のほうに向けられる。
「帰ったら、あの森で日陰ぼっこでもしましょう」
伏木蔵はそう言って、目を細めた。
ほどなくして、静かに学会が始まった。伏木蔵は隣で専門外の資料を眺めながら、それでも真剣に発表を聞いていた。終わったあと「偉かったね」と頭をぽんぽんと撫でると、「それ、悪い癖ですよ……」と呆れたように言われてしまった。
「まあ、こういうのもいいじゃない」
「僕はいいですけど〜」
「さ、帰ろうか」
「そうですね」
あの森のある場所へ。
ふたりで。
***
「あ、ちょっとこなもんさん〜」
「雑渡昆奈門だよ、伏木蔵くん」
「昆奈門さん、こんにちは」
「はい、こんにちは」
「この前からずっと、昆奈門さんに聞きたいことがあったんです」
「何?」
「僕たちって死んだらどうなっちゃうのか知ってますか?」
「それは、難しい質問だね」
「死んだら、燃やされて、骨になって」
「うん」
「今までのことは、ぜんぶ忘れちゃうんですかね?」
「……まあ、たぶんそうだろうね。泡みたいに消えてしまうのかも」
「それは……、もったいないですねぇ」
「もったいない?」
「覚えていたいです、僕は」
「それはみんなそうだろう。私だって覚えていたいよ」
「じゃあ、昆奈門さんが一番忘れたくないことってなんですか?」
「ああ、それも難しい」
「楽しかったことがたくさんあるってことですか?」
「まあ、そうかもしれない」
「うらやましいです〜」
「伏木蔵くんにもこれからたくさん楽しいことがおとずれるだろう。どれも選べないほど、迷ってしまうようになる」
「そうですか?」
「そう。例えば、今は?」
「楽しいです。昆奈門さんもいらっしゃるし」
「おや、それはよかった」
「絶対に忘れないです」
「期待しておこう」
「それにしても、暑いですねぇ」
「うん」
「日陰ぼっこがはかどります」
「うん、そうだね」
(その森で恋をする:了)
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