芽生えの記憶
タソガレドキ城の城主、黄昏甚兵衛が正室の体調が優れないという報せが忍び隊まで届いてきたのは昨晩のことだった。奥方やその子どもたちをはじめとする殿の血縁者に忍び隊が関わることは、これまでほとんど許されていない。普段であれば、城仕えの侍女がその世話を担っているはずなのだけれど、彼女たちは看病まではできたとしても、治療はできない、と言う。当然医師に診てもらってはいるのだが、原因不明と言われてしまえば、それまで。表に出てこない病か、それとも、毒や何かが盛られたか──。というところまでたどり着いて、ようやくタソガレドキ軍において末端も末端である忍び隊に助けを求めてきた、というわけである。
「伏木蔵、仕事だよ」
「えぇ? 急ですねぇ……、何ごとですか?」
「このあと殿の側衆たちが迎えに来るから、そこで話を聞くといい」
「御側衆が……? もしかして、奥方様のご容態に関することでしょうか」
「おや、さすが、情報が早いね」
「最近お姿を見ないと思っていましたから」
「毒か、病か、……おまえに、判断してほしいそうだ」
「うーん……、僕で役に立てるのならいいんですけど……」
伏木蔵は顎に人差し指を当てて、何かを考えるように上を向く。
そんな伏木蔵を見ながら、雑渡はこのまま行かせて大丈夫だろうかと思案していた。
殿の正室である奥方は、筋目のよい武門の御息女でありながら、武家に生まれた娘特有の深窓育ちな面がまったくみられない、変わった御人である。十七で嫁いできた折、一言目に「おまえが雑渡か」と声をかけられた瞬間の、あの威圧感を雑渡は未だに忘れられずにいる。うら若きおなごとは思えないほどの鋭い視線と、血気盛んな黄昏甚兵衛に添い遂げられるのはこの御人しかいないと思わせるほどの豪胆ぷり。病に伏している状態であれば普段ほどの勢いはないかもしれないが、そうでなければ雑渡ですら気圧されてしまうほどの威徳。そんな奥方の前で、もし忍風情の下っ端が粗相でもした日には、どれほど詰られて帰ってくるかわかったものではない。
「……昆奈門さん」黙っている雑渡に、伏木蔵が不思議そうに声を掛ける。「あの、何か?」
「いや、なんでもないよ」
「僕のことが、心配ですか」
「………うーん、」
「言っておきますが、手出しは不要ですよ」
諭すように言う。どうやら、目の前の若者にはすべてお見通しらしい。雑渡は、「もちろん」とため息混じりに返して、伏木蔵の背中に手を当てた。
──まあ、なるようにしかならないだろう、
「行っておいで」
「はい、」
ほどなくして伏木蔵は殿からの使いに連れ出されてその部屋を出た。
残された雑渡は、自分よりも小さなその背中を見送るだけで、いつだって傍にいることのできた昔とは違うのだと、自分自身の老いを思う。
ふう、と息を吐く。
白く染まった視界が開ける前に、雑渡は踵を返して、自分の仕事へと向かった。
***
若い侍女に案内された伏木蔵は、今まで一度も足を踏み入れたことがないその部屋の前に腰を下ろして「鶴町伏木蔵です」と名乗った。中に控えていたらしい別の侍女が戸を引くと、ふわり、と香のにおいが鼻を撫でる。
「顔を上げて良い」
「……失礼いたします」
視線をゆっくりと上げる。
そこにはあの殿が惚れた相手であると一目で合点がいくほどの気迫と美しさを持ち得た女性が腰を下ろしていた。わずかに身体が震える。なんせ、こんなに近くで顔を合わせることなんて滅多にない。
ただ、
(………おかしい、)
伏木蔵は眉根を寄せた。
病だか毒だか、という話を聞いてここまで連れてこられているのに、微かな笑みを浮かべてこちらに目を向けている奥方からは、普段と変わりあるところはまったく認められなかった。何よりも、床に臥していないのがおかしい。無理して座っているのか、それとも──、
「あの……、近くで診せていただいてもよろしいですか」
伏木蔵がそう尋ねると、奥方は一度だけ頷いた。伏木蔵は丁寧な仕草でその場から立ち上がり、奥方のすぐそばに近づいた。部屋中に漂っている香の香りが一層強くなる。手で触れてもいいものか、目を向けてもいいものか迷っていると、それを察したように「よく調べてもらってかまわぬ」と凛とした声が降ってきた。
「は、」
「毎日寒くてかなわんのう」
「ええ……、あの……どこが一番悪いのでしょう? 胸ですか、あるいは、腹でしょうか」
「すべてじゃ」
「すべて……」
「のう、鶴町よ」奥方の目がこちらを向く。「どうやってあの雑渡を落としたのか、聞かせてくれるか」
「は、…………、え?」
思わず聞き返してしまった。
血色もよく、毒や病に侵されているようにはまったく思えないそのひとは、着物の袖で口元を押さえながら楽しそうにくっくっと笑って、「こうでもしないとおぬしと顔を合わせることはできないからのう」と、なんでもないことのように言った。
「あの………、どういう」
こと、
と言いかけた伏木蔵の唇に、その細くて白い指が当てられる。
「他言は無用じゃ」
「それは………、もちろんでございます」
「ふふ、いい子じゃのう」
そこがいいのか、と奥方は独り言のように呟いた。
「聞きたいのだ。あれほどまでに頑なで、仕事のことしか頭にない男を私は他に見たことがないからのう……、誰かに心を寄せている姿なんて想像もできぬ。甚兵衛様からおぬしらの話を聞いての、話を聞きたいと思うた。それだけのこと」
奥方はそこまで言うと、伏木蔵からの答えを促すように眉を上げ、首を傾げた。
どうやら、答えないという選択はないらしい。この有無を言わさないような張り詰めた空気は黄昏甚兵衛が放つそれと似ている、と伏木蔵は思った。
伏木蔵は観念して、
「……組頭には、幼いころからよくしていただきました。それが、今に繋がっております」
そう、言葉にした。
「雑渡が手を出したのか?」
「いえ……、おそらく、私が先に、」
「あのなりの男にか」
「……はい、」
「おそろしく感じただろう」
「いえ、お名前を知ってからは、一度も」
視線が交差する。
奥方は、潤んでいるように感じられるほど真っ黒な瞳で伏木蔵を捉えたまま、しばらく口を開かなかった。そうして、ふ、と視線を外したかと思うと、ゆったりと笑みを浮かべる。
「そうか」
奥方の何かを飲み込んだようなその言葉に、ふう、と伏木蔵は安堵のため息をついた。
それを見た奥方は「愛いのう」と小さく笑って、
「下がってよい……、あと、雑渡に伝えてくれるか、今度はうぬが出向いて話を聞かせよ、と」
「……承知いたしました」
薬籠を手にその部屋を出ると、きんと冷えた冷たい空気に身体が震えた。
(………まだ、視線を感じる)
伏木蔵はその残滓を払うように息を吐く。白く濁った空気はふわりと漂って、やがて、消えた。
***
伏木蔵が雑渡の部屋に戻ってきたのは、あれから半刻ほどが過ぎたころあいだった。夕暮れが近づき火の弱くなった火鉢に再び火を入れたところで、「ただいま戻りました」と声がして顔を上げると、その子が連れてきた外の空気で部屋の中にひゅうと風が吹く。薬籠を置いてこちらに近づいてきた伏木蔵の腕を引きながら、雑渡は「どうだった?」と尋ねた。
「大事ないようです」
「そう……、それはよかった」
「奥方様が、今度はうぬが来い、と」
「私が?」
「はい」
「はあ………、それはそれは、怖いねぇ」
「とってもスリルな御方でした」
「だろうね………、何もされなかった?」
「されてはいませんが……」
「が?」
「うーん……、言葉にしづらいです」
「だろうね」
先の言葉を繰り返すと、伏木蔵は雑渡の胸もとに背中を預けて、何かを思い出したかのように、ふふ、と笑った。
「何?」
「……なんでもないです、」
冷えた身体がじんわりと温まっていく。奥方と何を話してきたのか一切雑渡に教えないつもりであるらしいその少年は、「寒いですねぇ」なんて何気なく言って、眠るように目を閉じた。
窓から見える外の木々からは葉が落ちかけていて、いよいよ、厳しい冬が来る。
──今日の仕事は仕舞いだな、
雑渡はそう決めて、なぜか甘えたがっているらしいその子の身体にまわす腕の力を、わずかに強めるのだった。
(芽生えの記憶のおはなし)
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